作陶の判断基準の資料館として

陶器は一つの材料と見た場合、その材料を適所に用いる事によりその材料を生かす如く、その陶土の性質と使用上の目的によって、建築材料から日用品、茶器、美術品に至るまでこれを包括する事を得るものである。

即ち陶器の可否を判断するにおいても、その目的によって異なるもので、異なる立場の批評は自由であるとともに、又これを無視する自由がある。

楽焼茶碗は日用器としては不可であるが、茶碗としてはその用に適したものである。又純白を目的としている陶磁器業界の眼から見ると、原土についても器に生ずる釉面の変化又はある色素を帯びるものに対しては、不純物の混入する不良原土として一蹴するが、材料を適所に用いるときは、不良原土は無いわけである。

使用上の制限を有し、使用上の感覚を重んずる茶人からすると、茶に用をなさないものは更に顧(かえり)みないという場合がある。

美を本位として求める近代人は、彫刻と絵画とを打ち混ぜた一種の陶器芸術として、これに対して芸術的効果を要求する純粋美術の感覚によってこれを観賞し、かつ求める故に、用途の如何(いかん)や形の大小等は一切顧(かえり)みることなくただ美を求めるのである。

ここに一つの花瓶があるとする。見るための瓶と花を挿すための瓶とは、時にその趣を異にする。古備前や古信楽が花そのものを生かすために茶人に用いられたのもこのためである。茶人の用途は茶室という小さな建築が基本となって、この小さい一室を美的に構成する材料の一つとして各器を見た。美の総合に用いる一つの材料として器を選んだ。それで建築に制限されるため、まず形と寸法の制限をした。

而(じ)して主体を生かすためには、他の器はこれに従属させなければならない。一つの花瓶の適否を定めるためには、まずその用いる部屋を頭に浮べ、その位置とこれに挿(さ)すべき花さえ想像して決するのである。故に一つの器に対してまず考える事は、見るものか使用するものかにある。

茶人の器は歌舞伎役者の舞台道具に等しく、必要に応じて適所に置き主人が芝居をし、客はその芝居を見るのである。

自分はある人に茶器を見せて貰いたいことを依頼したとき、そうすると「使ってご覧に入れる」という返事を受けた。正しく見せるためには、使ってみせるのが正当である。

しかし、我々の生活様式は日に変って行き、現在は古に比べると非常な変り方である。かつ美の内容が変り、好みが変りつつある。明の万暦の赤絵の壺は、昔は花が挿せなかったかも知れないが、今はダリヤを挿して喜ぶほどに変っている。

それのみにならず、近来著しくただ見る者の対象として、美の対象として芸術的効果をこれに求める者が多くなった。

ただ一つの李朝の壺をその部屋に置き、終日これと親しむことを知る人さえ多くなった。これは相互に立場を異にしたに過ぎない。立場を異にした判断は適当の判断批判でない。桐の木が建築材料にならないという事は、桐の木の何物にも触れていない事と等しい。